| 解説;隆興は佐々木政吉の養子として本所から神田駿河台に移り、錦華小学校に入学したときから、北辰一刀流小栗篤三郎の道場で劔道を習い始め、早くも16歳で北辰一刀流の目録を授けられた。一高に入学後は撃劔部での活躍目覚ましく劔豪の名をほしいままにしたという。27歳でベルリンへ留学したが、勉学に打ち込みすぎ体調を崩したので回復法として、ベルリンにあった国際的な劔道クラブへ入会した。ウィーンで開催された国際劔道大会に熊本県出身の医師、古賀六段と模範試合を行い喝采を浴びたという。隆興はさらに彼の地でフェンシングをも習得し、明治43年(1907)帰国後も続け、日本最初のフェンサーではないかと言われている。本稿は、隆興49歳の時に、武道専門誌と思われる「武教」創刊に当たり寄稿の求めに応じて書いたものであろう。隆興の幼少時からの漢学の素養が存分に発揮されており、現在では極めて難解な文章であるが、極めて蘊蓄に富むものである。 |
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佐々木博士は刀圭界稀に見る劔道の達人にして、その京大教授時代には自ら竹刀を執りて道場に立たれ、學生等を對手に猛烈な稽古をしておられた。大學教授にして自ら道場に稽古されたのは京大に於ては未曾有の事である。この氣合は刀圭にも現はれ東都駿河臺上杏雲堂病院の隆盛を見るに至つた。蓋し日本醫學界内科に於けるオーソリチーたると倶に醫學界劔道家の雄なる方である。左は本社の請に封し博土の劔道に於ける抱負の一端に過ぎない(編者)
劔道に「色付きの事」と云ふことがある。これは敵の色に付くなと戒むる事である。技術上の一例に就て之を言へば、敵の動作を見てこれに暗示せられ、自己を失つて自身の術も敵の為めに左右せられ、働き凝滞して神妙の劔を打ち出す能はざるを云ふのである。此の如くなれば劔道の術語を以て云へば、敵に使ひこなさるるに至る者で劔術の優劣は主として第一に此に基因するものである。故に名人達人の域に至らむと修業する者は、先づ心術の修養により此の色付より超脱するを心懸ねばならぬ。古より劔道の奥儀は之に到達する種々の工夫を教ふるを主眼としてゐる。古來より諸の流名にも此意味を示す者鮮くない。 「一刀流」とは一刀を遺ふが故に名づくるのでなく、一刀より起て萬刀となり、萬刀斂まって一刀となる、純一無礙を示す者である。故に天に處らず、地に處らず、天地と同體と教へる。天地に磅?して無?礙にして人問的狐疑心、期待心、恐怖心等の総ての心障を超越して一本萬殊、萬殊一本の自由自在の劔聖の域に逍遥するを得べしと云ふのである。「圓明流」と云ふのも、「無念流」と云ふのも、近くは「鏡心明智流」と云ふのも、皆之を彷彿せしめんと欲するに他ならない、私は常に想ふに劔術程適切に吾人に此般の心境を示す者はあるまい、怒る者は其の劔正しからず、怖るる者は其劔のびず、疑ふ者は其劔滞る。唯氣海丹田の間に力をこめ、大喝一聲敵なく我なき心持になつたとき、變に應じ變通自在を得るのである。劔道程皮肉に野狐禅的茫然と活?々地的静寂とを吾人に區別する者はない。茫然たる者は忽ちにして一撃の下に打ちのめさる。活的静は活的動に異ならず。石の當るところ火即ち發す。劔道に之を石火の位と云ふ。叉た水の在るところ月忽ち之に影さす、之を亦た水月と云ふ。巖間から點々と滴たる水珠を観よ、其落つる刹那に既に月は此球に宿る。 「劔術を何と答へむ岩間もる、露の雫に宿る月影」とは此般の心境を詠じたものである。心大空の月の如く?擬なく、凝滞なく、所謂至大至剛、天地の間に塞る底の心境でなくては、何ぞ能くここに至る事が出來ようか。此の如きものは劔道にあつては劔聖であり、人世にあつては大聖人で初めて出來得ることである。叉た劔道に松風と云ふことがある。是れ亦た他の一面から劔聖の心境を讐へたものである。松に聲なく風に籟なし。?々颯々、濟めば輙ち虚然として調々?々たるのみ。石火既に發して火今何れにありや。松風聲あつて聲今何くにありや水滴地に落ちて其月影今何くにありや。大喝雷震、一刀両斷、天地更に静なり(圓明流には雷震刀と云ふ)此等の心境は言語同斷なれども、通常道場にて教ゆるときは、之を劔術上の術語として、打て打たざる元の心と云ふ。叉た能く「スタル」べしと云ふ此の様な稽古振を賞めて良く「スタル」稽古なりと云ふ。見て居ても心地良きものである。 以上は二三劔道上の語を想起して述べた所であつて甚だ高遠にして實際に遠い様であるけれども、決してさうでない。吾人劔をとつて道場に演武するとき、自分を忘れ敵を喪れ、無念無想の心境にあることは決して稀ではない。敵の竹刀が目につき、敵の道具が目につき、或は敵の突が得意である、胴が得意であるとか小手が得意であるとか氣になる時は、叉は先輩などに向ふときは最早叶はぬものとしてかかる故、直ちに使ひこなさるる者である。敵が奇妙な竹刀の動かし方をなすことが氣になれば其色に付て進退意の如くならぬものである。劔道上、心術修養として先づ色付きを超脱することに修養することが第一歩である。而る後天地と同軆なる心境に、遂には到達することが出來る。人生のことも亦此の如しと考ふ。或は利慾に色付く者がある。或は人爵に色付く者がある。或は毀誉褒貶に色付く者がある。天空海濶的丈夫の襟懐をかぐ者が多い是れ皆高尚なる理想と自信がないのに由る。劔術に於ても色に付く場合は自信なきに由ることが多い、人間向上の一路は理想を高尚にして且つ自分の專門に精勵して自信を得るにありと信ずる。 王陽明答友人書に曰く「君子之學務求在己而己。」叉曰く「君子不求天下之信己也自信而己、吾方求以目信之不暇、而暇求人之信己乎。」自ら信ずる者は他の色に付かず毅然たる大丈夫と謂ふこが出來る。劔道色付きのことを説て責を塞ぐことにした次第で「武教」の健全なる發展を析りて筆をおく。 初出;武教、創刊号、昭和2(1927)年 |