杏雲堂山脈
                                   澤田白泉

解説;
この「杏雲堂山脈」は、澤田白泉(本名 澤田達夫、富士エックスレイ株式会社常務)氏が、昭和44年から49年にかけて「Xレイジャーナル」誌に「お醫者山脈」というタイトルで延べ66回に渡って連載された大作の一部である。澤田氏はそのはしがきで、「医者はよほどよい商売とみえて、大方は自分の子を医者にしたがる。そして婚姻関係を医者同志で持つ。そこに医者の閥というものが出来る。‘お醫者山脈’がある所以である」とかなり皮肉で手厳しいことを書かれているが、それは著者の職業がレントゲンフィルムと自動現像機を全国販売することだったことで医者の裏も表も眺めることが出来たせいであろう。連載終了後、昭和51年にまとめて一冊の「お醫者山脈」として、Xレイジャーナル社から発行された。内容は、まず日本医学史の概略を述べ、その後に、「山脈」として、入沢家、竹山家、澤田家(著者の家系)、寺島家、箕作家、熱田家、緒方家、順天堂、慈恵会等々の歴史、人物が記されており、極めて興味深いものである。以下に、その一部である杏雲堂病院の由来から現在までを述べた「杏雲堂山脈」をやや手を加えて載せさせて頂いた。ちなみに、著者は故佐々木洋興(財団法人佐々木研究所名誉理事長)とは、学生時代から昵懇の仲であったとのことである。


「杏雲堂といえば、刀圭界(注;医学界)に於て日本国中誰知らぬものもないほど有名である。筆者の如きも十五、六歳時代已に田舎にありてさえ、外科といえば順天堂、内科といえば杏雲堂と語りきかされた者であった」という名文は、小池重が著した「杏雲堂三代記」の冒頭である。
小池重は杏雲堂の副院長でもあったし、漢学者で、曼洞と号し漢詩をよくする。「杏雲堂三代記」は、昭和二十八年九月から昭和二十九年三月まで東京医事新誌に連載されたもので、洛陽の紙価を高めた貴重の文献である。本項中、三代目までは主として、この「杏雲堂三代記」によって書くことにする。
そのほか、広文杜印刷佐々木秀一先生編集「佐々木東洋先生略伝」及び、昭和四十三年九月に佐々木隆興遺族会が発行した杏雲堂三代目佐々木隆興遺録追憶集「落葉集」と、昭和四十年五月発刊「佐々木隆興先生論文集」を参考にした。

筆者がご眤懇に願った加藤成之(よしゆき)男爵の岳父が杏雲堂三代目・佐々木隆興である。加藤成之先生は、佐々木隆興先生の長女順子さんと結婚し、二人でパリに留学した。華やかた留学生活も二年して順子さんはパリにて客死した。享年二十四歳であった。六年後加藤先生は順天堂四代目佐藤達次郎男爵の長女貞子さんと再婚なされたのである。という関係で、私はよく佐々木隆興先生や杏雲堂の話を加藤先生から聞いていた。それで、杏雲堂山脈はいつか記録して置きたいと考えていたものである。
さて「杏雲堂四代」といえば、創立者佐々木東洋、二代目佐々木政吉、三代目佐々木隆興及び四代目佐々木洋興である。御茶の水に今尚立派な杏雲堂病院が隆盛を極めているが、小島曼洞は「この四代が相ついで傑出した人物であったためである」といっている。この四代の世に知られた功績は後で詳述するが、ここにまとめて簡単に紹介する。
初代佐々木東洋は、杏雲堂を創設し「打(た)たき東洋」の異名で世に知られたように、明治五年「診法要略」を著し、日本で打診聴診の法を伝えた嚆矢である。
二代目佐々木政吉は、医学を通俗医学とした嚆矢で「冷水摩擦」を健康法にとり入れた。今では常識となっているが、明治二十年にこれを唱なえて世に感銘を与えた医者である。
また、当時の医学では空気、日光の応用、即ち気侯療法というものはなかったが、白砂青松の平塚海辺に杏雲堂平塚分院という療養所を設立し、気侯療法を実践した。我国結核療養史上特筆大書すべき功績であった。
三代目佐々木隆興は、大正二年血圧測定の必要を学会で力説し、提唱の発頭人となった。今でこそ内科の臨床医は猫も杓子も血圧を口にするが(失礼の書き方であるが「三代記」著者小池重の論文による)血圧測定を唱えた嚆矢である。
佐々木隆興の最大の功績は、佐々木研究所を創立したことであると思う。第一回の思賜賞は、この研究所の有名な「アミノ酸の合成研究」である。
第二の思賜賞は「肝臓癌の実験的研究」である。さきに山極勝三郎教授、市川厚一による人工的皮膚癌の成功があり、更にこの人工的肝臓癌の成功は、日本医学を世界に知らしめたものである。
この佐々木研究所は、吉田富三博土が受けついで、ますます日本医学を世界的に名をなさしめたのである。
佐々木隆興は、昭和十五年文化勲章を拝受されたが、医学者で文化熱章を得た最初の人である。
四代目佐々木洋興は、杏雲堂を近代的医療機関に発展させ、研究所を近代化した功績者である。

杏雲堂創設者 佐々木東洋(1839-1918年)
佐々木東洋は、天保十年六月二十二日、代々外科医として続いた佐々木震沢の長子として江戸に生れた。
幼少にして近所の幡鎌又五郎という手習師匠について四書の素読を学び、漢籍を修め、剣術の道場にも通っていた。
家が医者であるから、医術を見習っていたが、漢方医術の何となくたよりないことに気附き、父に乞うて洋方医術の修業を願った。父は佐倉の順天堂につれて行き、佐藤泰然の門弟とした。佐々木東洋十八歳の時である。
三年後、佐藤泰然の養子佐藤尚中が長崎へ遊学するに当り、学費旅費自弁にて同行し、ポンペについて洋医を学んだ。同行七人であった。二年にして江戸に帰り父の代診を勤めたが、長崎帰りの若先生というので評判となり繁昌したという。
この頃、信濃屋という豪商の家族がチフスにかかり若先生佐々木東洋に治療を求めた。非常に重症であったから、将軍の侍医である林洞海(佐藤尚中の義兄)に対診を依頼したが、林洞海は所詮恢復の見込みなしと宣告し、見離してしまった。佐々木東洋は、独り人事を尽し洋方の治療を続けたところ、段々快方に向い、遂に全快するに至った。これが評判になって、佐々木医院は益々繁昌した。
患者で三河屋という豪商がいて、東洋が高価な蘭学の字典をほしがっているのを聞き、当時の金十五両という大金を無利息、出来時払いで用立てしたので、佐々木東洋は字典や蘭書を購入し、勉学に励んだ。夜九時頃まで往診し、帰ってから夜中の三時頃まで読書するのが日課であったという。
明治二年に、東京医学所と大病院が合併して、大学東校(東大医学部の前身)となったのであるが、佐々木東洋は大学東校の少助教になった。その頃佐藤尚中は大博士兼大典医であり、医長は英医ウイリス、その下に大助教池田謙斉がいた。
明治四年、大学東校に一大変動が起り、英医ウイリスが辞職して英国に引上げた。そして、明治五年に、独逸からミュレルとホフマンが招聘された。ミュレルは四十七歳、ホフマン三十四歳の時である。
これは、所謂英国医学と独逸医学の分岐点であり、この時から、日本医学は独逸医学によって指導されることになるのである。
余談ではあるが、レオポルド・ミュレルの銅像は東大構内にあったが、何者かに盗まれ、昭和五十年六月に再建されたものが、独逸医学の象徴として、今でも東大構内にある。
さて、ホフマンが来日した時、大学東校の大博士(総長)は佐藤尚中であった。佐藤尚中は内科と外科とを分けて、内科の教授をホフマンとし、その下に佐々木東洋を医長とした。外科の教授をミュレルにした。ホフマンの通訳に三宅秀をつけ、ミュレルの通訳には司馬凌海が選任された。
内科のホフマン教授が臨床講義をする時には、佐々木東洋医長が患者の病歴症状書をととのえて医員と共に待つ。ホフマン教授が三宅秀通訳官の先導で悠々と教室に入って来る。ホフマンの講義や診断に、佐々木東洋は常に敬服し、感服していたが、この時ホフマンと佐々木東洋との間に事件が起った。

打(た)たき東洋誕生
その日のホフマンの講義は死体解剖であった。ホフマン教授が、いざ解剖するという時に、佐々木東洋医長が意外な申出をした。
それは「死体を解剖する前に、打診で心臓や肝臓の境をしるしして、解剖して見せて頂きたい」と希望したのである。
ホフマン教授は、心中ムッとしたが、ニッコリ笑って、よろしいと答えてその通りにして解剖して見せた。その結果は、打診とまったく符合したので、学生一同も、ホフマン教授の診察打診技能を驚嘆したという。
佐々木東洋は、そうすることが医局員や学生を稗益(注;役立つ)することになると考えて注文したのであるが、ホフマンは、佐々木が自分の技量を試したのだと邪推した。
それ以後、ホフマンは患者の診察に際して「佐々木、お前の所見はどうだ」と尋ね、それは違うと難詰することがしばしばあったとしう。
生来負げず嫌いな佐々木東洋は、大いに打診、聴診について研究した。患者や死体について研究したばかりでなく、家に帰ってからも、健康な自分の夫人や、使用人の胸を毎日打診した。
そして「診法要略」という打診聴診の法ともいうべき著書を書いて、世に出した。これによって打診聴診の神様といわれ、佐々木東洋は「打たき東洋」と異名をとったのである。
間もなく、佐藤尚中が故あって大学東校を退くことになった。佐々木東洋は、長崎遊学以前からの親友であり、上長であり、親戚でもある尚中に情誼を感じて、共に退職した。
亀沢町の自宅で開業したが、何しろ「打たき東洋」として有名だったので、患者は門前市をなし、どうすることも出来ない有様であった。
その時、患者に堀越角次郎という金持がいて「先生の陋屋、狭隘なるを見るに忍びず」ちょうど蠣殻町に、二階建の屋敷で病院にするのに適当な家があるからと薦めた。佐々木東洋はそれを買う金がないとことわったが、堀越は自分で金を出し、出来た時払って戴ければよいといってきめてしまった。佐々木東洋の人徳である。かくて亀沢町から蠣殻町へ病院を移し、移住したのである。
屋敷が広かったので、入院患者を収容し、門弟は二十人以上集まり、講義を開き、医学所のようなものになった。

米医アッシミードとの対診
この時、岩佐純が来訪して「此度、大久保東京府知事が、東京府病院を設立することになり、その院長になって貰いたい」と申し入れした。
普通の人であったら、こんな盛況の開業医をやめて、出勤しなかったであろうが、佐々木東洋は、公共事業に尽したいという義侠心から、これを引受けた。
但し、自分は官庁の御気嫌取りは不向であるから「君が院長で、自分は診療だけなら受けよう」ということで、岩佐純院長、佐々木東洋副院長の東京府病院が設立された。
佐々木東洋は、自宅診療を閉じ、門弟全部を伴って登院し、診療に専心した。従来の佐々木病院の患者がそっくり新病院に集ったので、開院と同時に成績は挙り、東京府病院は隆盛を極めた。
しかし、当時西洋人が最高権威の時代であったから、病院の名声と、生徒の学術奨励の看板として、米国から医者を招くことになった。
軍医総監松本良順の紹介で、米国からドクトル・アッシミードが採用された。アッシミードは二十六歳の青年で、臨床経験もまだ浅かったようであるが、西洋人に対しては、特別扱いしていた時代であったから、佐々木東洋もそのことには留意していた。
交際には注意を払っていたが、打診聴診になると、佐々木東洋は妥協を許さなかった。数ヶ月たらずしてアッシミードと対診する事態になった。
ある肋膜炎の患者が入院した時、アッシミードの診断と、佐々木東洋との診断が違っていた。患者の家族が、是非その正否を明かにして貰いたいと迫った。
佐々木東洋は、患者の胸内に液体がたまっていると思うから、胸に穿刺して滲出液をとっておめにかけましょう、ということになって、アッシミードと立合って穿刺した。五十オンスの液をとって家族に示し、納得せしめた。しかし、アッシミードは面目を失ってしまった。
アッシミードはそれ以来、佐々木東洋に反感を懐き、大久保知事に苦情を述べた。生来不屈の佐々木東洋は、知事に面会して事情を説明し、其帰途、岩佐純を訪問した。「今回の事は院内治療に関することで、其責任は自分にある。院長には何ら責任はない。自分の辞職が最良の策である」といって、潔く、用意していた辞表を提出して、やめてしまった。
佐々木東洋は、蠣殻町の自宅で開業の用意をはじめたが、世間は佐々木東洋をほって置かなかった。数日を経ずして、文部省出仕の長与専斉が来訪した。大学東校の病院長になって貰いたいとのことであった。
佐々木東洋は、自分はとかく辞職する癖があるからと、直ぐには応じなかった。大学病院では、佐藤尚中の退職以来、外来患者が急に減少し、大学の臨床講義用の患者にも差支える有様であった。
改革の第一歩として、政府は長与専斉に整理の内命を下した。その事情を佐々木東洋に話し、佐々木が病院長を引受けて呉れるなら、長与自身が校長(総長)になって、大学の改革に乗り出す覚悟であることを語った。
それほどまでに信頼下さるならと、病院長を引受けた佐々木東洋は、時に三十六歳、医術は熟達し、精力も旺盛で、人生の働き盛りであった。
外来患者の初診は全部必ず自分で診察し、入院患者は自分で毎日回診した。患者は感謝のあまり、先生の自宅に礼物を持参する者が多くあったが「私はお上から俸給を貰っているから」と、一切断るのが常であった。
また、患者が増えるにつれ、自宅診察を乞う者もあったが、一切大学に来て貰いたいと断った。佐々木東洋の性格躍如たるものである。日に日に患者は増加して、勿ちにして臨床講義に差支えないようになった。
明治八年、佐藤尚中が、本郷湯島に順天堂病院を新築中、突然病に倒れ重症になった。佐藤一家には多くの大家がいたが、佐々木東洋に、自分の治療を一任するといわれた。恩師の信頼に感激し、日夜をわかたぬ看護を尽し、流石の難症も誠意をもって治療した効があり、全快した。佐々木東洋の喜悦、満足は、この時が一番であったろうと思われる。
佐々木東洋は、大学病院長の職にあること二年にして、長与専斉かち依頼された責任は完全に果したと考えた。それに、大学今後の発展には、外国教師と、外国で学んだ新しい医者に任すことが得策であると建策して、近々帰朝する筈の秀才池田謙斉に後事を託して身を引いたのである。後年の名東大総長池田謙斉の誕生である。

一生一度の洋服
佐々木東洋は大学東校病院を辞して、蠣殻町で開業した。間もなく神田駿河台に引越したが、駿河台は未開の僻地で、樹木が多く、笹籔の中に人家があり、狐や狸が出没する有様であった。
佐々木東洋についてこの僻地に入門するもの十数名と共に開業し、午前中は外来診察を行い、午後は往診し、帰宅して夕食後に毎夜門弟に講義をし、それから自分の勉強をするのが常であった。それで、毎夜寝るのが二時か三時であり、睡眠時間は、三、四時間であったという。
明治十年、西南戦争が勃発して、大阪に臨時陸軍病院が設立された。時の軍医総監松本良順は、順天堂の佐藤進を病院長とし、一等軍医正に石黒忠悳が居た。
陸軍病院では医者が手不足であるが、民間から軍医になる者がいなかった。戦争にも差しつかえることになり、松本、佐藤、石黒らは大いに困った。
佐々木東洋はこれをみて、慨嘆奮起して、町医者の代表として出馬を決意し、隆盛であった自分の病院をたたんで志願した。
松本、石黒は、喜んで佐々木に一等軍医正を命じたが、佐々木はこれを受けず、臨時雇御用掛だけにして貰いたい、あくまで奉仕であるからと、官職を辞退して大阪に赴任した。
それで、和服を着て診察した。患者たちは、佐々木東洋が「打たき東洋」といわれた大家であることを知らないから「自分たちは戦傷でなく、病傷であるから、軽く扱われるのはいたしかたないが、町の開業医に治療をうけるのはなさけない。せめて軍医官殿に診てもらいたい」といいだした。
仕方なく佐々木東洋は、一躍一等軍医正になった。佐々木東洋が洋服を着用したのは、一生の中でこの時だけである。

東洋の脚気相撲
明治十一年、佐々木東洋は、大阪の臨時陸軍病院の一等軍医正になって傷病兵の治療に当っていたが、勤務五ケ月で西南戦争が平定して、東京に帰着した。
その頃、明治天皇が浮腫性脚気におなやみになっていた。脚気は西洋にない病気であるから、洋方医には治療法を知っているものはいない。といって、一子相伝と称して、脚気秘薬を標榜する漢方医に、天皇の脚気病を治療させるわけにもいかなかった。
宮内省の下問をうけた文部省の医務局長・長与専斉は、これにはほとほと困ってしまった。
余談であるが、長与専斉は、医務局長が内務省衛生局長と改名した後も、この職にあること二十余年、官界では、同じ職にこんなに長くいることは珍しかった。当時世人は、万年同局長の姓名をもじって、「日本衛生局長の職は、長く専斉に与う」と評したほど長与専斉は医療行政に通じていた。
しかし、天皇の脚気病にほとほと困り、佐々木東洋に脚気の治療法を相談した。佐々木東洋は「西洋に脚気がないからといって、我々洋医に脚気の治療が出来ないわけはない。脚気に対して、漢方医がよいか、洋方医がよいかという疑問を未解決にしてはいかん。両方から医者を選出して、各々に民間の脚気を治療せしめて、その成績を比較して判断すべきである」と主張した。
直ぐに宮内省の費用で神田一ッ橋に脚気施療病院を開いた。世にこれを「脚気病院」といったが、翌年、本郷駒込に新病舎が出来て移転した。
漢方では、遠田澄庵、今村了庵が選出され、洋医から、いい出しっぺの佐々木東洋、小林恒が選ばれ、審査役は、長与専斉、石黒忠悳、高階経徳(宮内省侍医)、池田謙斉、長谷川泰らであった。
この勝負、満二年間の成績を通覧しても、漢洋両方の治療の勝負はつかなかった。世人之を評して「漢洋両方の脚気相撲」と称し、評判となった。脚気病院は二年して閉鎖された。

杏雲堂創設
佐々木東洋は、長与専斉に頼まれた仕事が一段落したので、御茶の水の自分の病院で、本格的に私立病院の経営を決意して、約二十室の二階建病舎を増築し、杏雲堂と名づけた。
これが現在の杏雲堂に発展するのである。佐々木東洋、時に四十三歳であった。
杏雲堂の出典は、中国の神仙伝からとったもので、杏林とは医師のことである。
名医薫仙の植えた杏花が十万余株となり「欝然として林を成し、杏花雲の如く、杏子大いに熟せり」という言葉からとって名付けた。杏花雲の如き「杏雲堂」である。
この名のように病院は盛になり、患者は早朝門扉の開くのを待って、玄関受付に走るようになったため、駅の改札口のような柵が設けられ、一人一人列をなし受付番号を貰うようになったという。

三宅家との縁談
佐々木東溟の養嗣子・佐々木秀一の著「佐々木東洋先生略伝」によると、佐々木東洋は、長崎留学から帰ると間もなく、ある患者の世話で、商家の娘と結婚したが、不幸にして、謹厳努力型の学者の妻としては性格が合わず、間もなく不縁になった。
半年ほどして、田口方中の娘富美子と結婚した。この夫人は気立がよく、内助の実もあがり、家内円満であったが、七年目に急性肺炎で早逝した。
その忌が明けると間もなく、林洞海(佐藤尚中の義兄)から「用談あり、来訪を待つ」という手紙をもらい、何事かと案じながら洞海邸へ行くと、三宅艮斉の未亡人遊亀子夫人からの依頼で、その長女峰子を貴君にもらってもらいたい、とのことであった。
三宅艮斉は、有名な御典医で、家柄もよく、遊亀子未亡人は世に聞えた賢夫人である。艮斉の長男三宅秀(後の東大学長)は当時金沢に赴任中で家は女ばかりで困るから、縁組と同時に三宅家に引移って、医業を続けて貰いたいという希望が附加されていた。
佐々木東洋は、もう再婚する意志がなく、かたくおことわりしたが、遊亀子未亡人のたっての頼みと、林洞海らの推めで、この縁談はまとまった。
佐々木東洋は、勉強家であったから、三宅艮斉が有名な蔵書家であったので、その遺書を自由に読めるということが頭の中にあったかも知れない。しかし、三宅家に移り住んだ時には、佐々木東洋が楽しみにしていた艮斉の蔵書は、艮斉存命中に残らず他に譲られていて一冊もなかったという。

佐々木東洋の逸話
佐々木東洋は、前述したような逸話の多い人物である。佐々木東洋は、医術には妥協はなく、常に「医者は患者の要請に依って治療を施すもので、患者が招聘する方法が意に適せぬ場合は、富豪貴人の招きと雖も応じない。服薬摂生について、命令に服せぬ者には、治療を謝絶する」といっていた。
或る高官から招かれて往診した時、あまり長時間、応接室に待たされたので、診察せずに、さっさと帰宅したことは度々あったという。
入院患者で、賄食が不味いと不平を漏らした人には「病院は料理屋にあらず、旨い料理が食べたいなら、料亭に行くがよい」と、さっさと退院させたという。
とにかく、こわい院長であったらしく、病院では毎日毎日、先生から叱られた話で持切りであったが、患者は、妙に先生を全幅的に信頼し、先生を慕って来る患者が、門前市をなしたという。
ある多額納税者の豪農が上京して杏雲堂に来た。佐々木東洋院長に診察を受けた時に「何博士に診てもらったところ、何病といわれたが、はかばかしくない。何病院で治療したが治らぬ」と、くどくど説明した。東洋院長は「お前の病気はワシには治せんから、診察に及ばぬ、サッサと帰えりなさい」ときめつけたので、患者は平身低頭あやまって、やっと治療をうけたという。医者の門戸を、次々と廻る信頼心のない患者を「巡礼患者」といってこのような患者は絶対に診察しなかった。
佐々木東洋は「医は仁術である」という信念で、収得の三割は慈善に用いると宣言し、神田区民の貧困者に対し、毎月三百回分の施療券を発行し、無料の施療室を設けて十五名の患者を収容した。これは基本金五万円を自分で出し、その利子二千五百円を以て施療費に当てたという。後、推されて東京医師会長となる。

佐々木東洋の晩年
佐々木東洋は、六十歳の時、伊豆熱海に隠棲し、杏雲堂に関する一切を、秀才である養嗣子佐々木政吉博士に譲った。仏教を友とし、温泉につかり、悠悠自適の日日是好日であった。その句を見てもその心境が解かる。
世の中の移りかわりを棚にあげ 
良し悪しなしに すぎし喜しさ
海にむけ窓を明けさせ無精もの 
ねながら日の出 みるぞ楽しき
紫の雲の迎えはよけれども 
おそく頼むよ 南無阿弥陀仏
佐々木東洋が熱海にて病を得た時、一族の懇清により大森山王台の別邸へ移り、大正七年十月九日、一門に見守られて、何の苦悶もなく大往生を遂げた。亨年八十歳の高齢であった。

二代目・佐々木政吉(1855-1939、安政2年-昭和14年)
杏雲堂二代目佐々木政吉は、興堂と号し、初代東洋の養嗣子である。安政二年十一月、江戸本所堅川通中田茂七の末子として生れた。中田家は、江戸で有名な釣道具屋であった。
政吉の母ヒサは、東洋の父佐々木震沢の妹であるから、東洋と政吉は従兄弟に当る間柄である。佐々木政吉は幼少にして神童であり、伯父にあたる震沢に愛され、教育され、九歳の時、佐々木東洋の養子となるべく決められた。
政吉は幼少より、震沢、東洋から漢学をみっちり教育され、十八歳にして大学東校に入学し、英語を学び、三宅秀からは独逸語を学び、二十五歳で優秀な成績で大学を卒業した。翌二十六歳で独逸に留学することとなった。
文部省から、三年間の留学を命ずる内意があったが、佐々木東洋は謝絶して、私費で五カ年、政吉を独逸に留学させることにした。
明治十八年独逸から帰朝し、直ちに東京帝国大学医科大学教授となり、内科を担当した。時に三十歳であった。従来、有名なベルツ教授が担当していた診断学をベルツに替って受継いだのである。当時日本人の教授は、佐々木政吉唯一人であった、体軀偉大にして、眼光燗々、音声朗々たる講義ぶりは堂々たるものであったという。
明治二十三年、ベルリンで口ーベルト・コッホがツベルクリンを発表した時、結核治療剤の研究調査のため、政府の委嘱をうけて再び洋行した。
明治二十八年九月、自分から大学教授の職を辞して、父の経営する杏雲堂病院の副院長になり、恩義をうけた養父佐々木東洋に報いたのである。時に政吉四十一歳であった。

佐々木政吉と通俗医学
佐々木政吉の功績の一つは、冷水摩藤を医学的健康法として世にひろめたことである。今こそ、その効用は広く知られているが、その頃欧洲で行われはじめていた冷水摩擦が、健康上実によいことであると、この普及に力を入れた。
その方法は、毎朝早く起きて、洗面所で裸となり、または肌をぬぎ、手拭を水に湿してキリッとしぼり、これで手から腕、頸、背、胸、腹、次に脚まで摩擦するのである。皮膚が赤くなるまでこすると、全身に湿暖を感ずる。血液の循環をよくして、精神を爽快にする。学生の神経衰弱などは直ぐによくなると、機会あるごとに講演し、普及につとめた。名医にあらざれば出来ぬことである。
また、結核療養に空気、日光の応用、即ち気侯療法をとり入れたのは、佐々木政吉がはじめてであるといってもよい。今でこそあらゆる海岸や、静浄なる土地に、結核療養所が建てられているが、刀圭界で結核療養所に気侯療法を取り入れて白砂青松の平塚海岸に一大結核療養所を創立したことは、わが国結核療養史上、特筆大書すべきことである。
明治二十九年、佐々木政吉が杏雲堂平塚分院を建てて、結核療養に功献した当時は、結核といえば、不治の病とされたので、長期入院が多かった。二年も三年も入院治療を続ける者もあり、北海道及び東北地方からは、年々冬期間のみ入院療養する者も多かった。
新潟県の大地主白勢某の如きは、一軒建の特別一等室(八畳、六畳、三畳、二畳の外に、お勝手風呂場付)に入院し、家族四人と看護婦を雇い、女中を使って、二年余も静養したという記録が残っている。
佐々木政吉の患者に、群馬県の富豪がいた。この患者は、駿河台の病院にて喀血し、重症であったが、佐々木政吉の手厚い治療によって助けられたものであった。その一人娘が体が弱く、湘南海岸で転地療養していた。療養中に腸チフスに罹り、富豪の父は前のよしみで、政吉先生にお願いして、杏雲堂平塚分院の隔離室に入院させて貰った。娘の容態は、毎日三十九度以上の熱で意識は朦朧として、脈博も時に結滞する重症であった。佐々木政吉は、カンフル注射を行い、手厚い治療に尽力した。しかし、必ず癒るとか、所詮癒らぬとか断言出来る状態ではなかった。
その旨父親に伝えると、父親は人を介して「どうせ死ぬなら、生前に、東京大学の某教授に一日診察を受けさせて戴き度い」とお願いした。
これを聞いて佐々木政吉は、烈火の如く怒り、「誰れにでも好きな者に診てもらえ。但し、退院してから診察を受けるよう、しかと申し伝えよ」と厳命した。
当時、日本の内科では第一人者と自他共に許した襟度(注;度量)である。驚いた富豪は、大いにあやまり、その後娘は遂に全快したという。

晩年の佐々木政吉
杏雲堂二代目佐々木政吉は、養父佐々木東洋の創立した杏雲堂病院を継いで、いっそう隆盛にし、平塚分院を興して、世に貢献した。若くして独逸に留学し、三十歳にして東京帝国大学医学部の教授となり、四十歳にして職を辞し、杏雲堂を継いで、養嗣子佐々木隆興に譲るまで、勉学と多忙の一生であった。
六十一歳の時、たった一度だけ関西に観光したことがあった。杏雲堂病院事務長川村恒次郎を伴って珍しく十数日、京都、大阪を見物して歩き廻った。
二人で毎晩、宿で晩酌した後、必ず一緒に映画を観に行った。大正四年のことであるから、活動写真であった。連れの川村恒次郎は、初代佐々木東洋の時代から勤めている病院事務長で、もう老人である。
老人であり、晩酌後であるから、活動写真館に入り、暗くなると、直ぐ居眠りしてしまう。いくつ観たのか知らぬ間に、終って、どかどかと客が帰える。その騒がしさに、老事務長はハッとして目を覚し、驚いて隣席の政吉先生を見ると、これまた、まったく心地よげに、ぐうぐう鼾をかいて熟睡している。
「先生、先生」と肩を叩いて起こすと
「おお、川村どうした」という。
「どうしたではありませんよ。もうすみましたよ」という。
「おうそうか。では帰えろう」と、笑いながら宿へ帰える。
これが旅行中、毎晩続いたというから、佐々木政吉は大人物であったとみえる。
佐々木政吉が軽井沢に別荘を造ったのは、明治二十四年であるから、三十六歳で、東大教授の時代である。軽井沢草分けの一人で、当時高価といわれたが、坪当り、二十五銭の時代であった。
三十六歳の時、ハイカラで、カイゼル髭をはやした大学教授様が散歩している姿をみて、軽井沢の土地の人は「ローマ法王」という緯名をつけたという。
晩年、大森山王の別邸に隠退した後も、軽井沢を愛し、よく避暑に行き、軽井沢銀座を散歩したという。その頃、芳子賢夫人は、老体を案じ、長年奉公の忠僕三吉を見張り番として、見えつ隠れつ後から随行させていた。
昭和九年、佐々木政吉八十歳の時、家庭の中心人物であり、一族の中心でもあり令夫人賢夫人のほまれたかかった芳子夫人が、六十八歳で逝去し、翌年、養母の峯子未亡人が八十四歳で逝去してから、佐々木政吉もがっくりした。
大森山王の別邸はこれより急に淋しくなったが、当時三代目院長佐々木隆興や梨喜子夫人、孫達が遊びに来るのを楽しみにして幸福な晩年であった。
昭和十四年七月、佐々木政吉は、大森山王の別荘で、ラジオ放送を聞いて、世界の情勢に一喜一憂の生活であった。
或る日、感冒の気味で、ねている所に可愛がっていた初孫の佐々木洋興(現杏雲堂理事長)がいよいよ出征することになって、来訪した。孫の凛々しい軍服姿を見て、大いに喜び「これは立派になったものだ。体に気をつけてしっかりやってきなさい」と激励した。洋興は「はい、では祖父様、往って参ります」と、うしろ髪をひかれるお見いで出立してしまった。
最愛の孫の別離にがっくりしたのか、その夜半より発熱し、三日目に不帰の人となった。享年八十五歳であった。

佐々木芳子夫人
およそ、一家繁栄の歴史を見るに、必ずその裏に賢明貞淑な賢夫人が居たことは“お医者山脈”においても、しばしば記述した。杏雲堂佐々木家の繁栄にも、典型的な「賢夫人」が居た。佐々木政吉の夫人、佐々木芳子である。
佐々木芳子は、須田経哲の次女として生れ、明々堂眼科医院長須田哲造の義妹に当る。この須田哲造と佐々木東洋が親友であって、佐々木東洋が芳子の人柄にほれこみ、芳子七歳の時、佐々木家の養女として貰いうけ、我が子として教育し後、政吉と結婚させた。芳子十八歳、政吉二十九歳の時である。
芳子は旧女子師範学校に入学していたが、中途退学し、中嶋歌子に和歌と書道を学び、渡辺幽香に油絵を学び、江戸千家岡田秋湖に、活花、茶道を学び、六角紫水に蒔絵を学んだ。
芳子の養子、三代目佐々木隆興は「私がこれまで、一番絶大たる感化をうけたのは、私の養母芳子である。実に立派なかたである」と言明している。
佐々木隆興は、一高時代に剣道部に入っており、指南役の腕前であった。その寒稽古の三十日間、養母の芳子は、朝三時に起きて、食事を用意し、剣道の道具をそろえて世話をし、一度もいやな顔をしなかったという。
杏雲堂は佐々木塾ともいわれて、家には常に多くの門弟が出入りしていた。芳子夫人が、大勢の塾生に、不平不満を漏らさせず、和気靄々として切瑳琢磨させたことは、容易のことではなかった。
佐々木家、佐々木塾の、冠婚葬祭、親戚故眷の来訪、金銭の出納、雇傭人の世話すべて芳子夫人の役であった。
佐々木家には、平生四、五人の女中が居た。女中に過ちがあっても、芳子夫人はけっして叱責しなかったという。却って柔しく、ねんごろに教えるので、女中は一人として不平をいわなかった。
当時、佐々木家に居侯していた小池重(杏雲堂三代記の著者)は、或る日のこと、悪友と一緒に柳橋で夜ふかしして、泊りこんでしまった。電話もしないで外泊したが、若さのいたりで、平気で翌朝帰って「お早うございます」となにげなく挨拶した。芳子夫人は「小池さん、ゆうべは背負投げをくわせましたね。床をとって一時まで待っていましたよ」と、この一言で、他は何もいわなかった。あとはいつものように、にこにこ話し合っていた。小池重は、恐縮して一言半句の弁明も出来ず「相済みません、今後つつしみます」と赤面しながら許しを乞うたという。「この時の芳子夫人の態度は、吾実母にもまさる温情で、少しも人を辱かしめる様子がなかった。威厳あるこの処置は、終生忘れられないほど、深い感銘を受けた」と記している。
芳子夫人の養父佐々木東洋が逝去した時、重態の東洋につききりで、十数日間不眠不休の看護孝養を尽し、葬儀が一段落した時は、厠にしゃがんだまま昏睡状態となり、厠で熟睡してしまったという。
芳子夫人が六十八歳で逝去した時、かつて泣いたことのない養子佐々木隆興は、この時ばかり、声をあげて、よよと泣きくずれたという。

三代目・佐々木隆興(1878-1966、明治11年-昭和41年)
杏雲堂三代目佐々木隆興は、明治十一年五月五目、医師佐々木東溟の次男として、東京で生れた。幼名は雄二という。
佐々木東溟の父は、幡鎌文五郎(号、槐園)という有馬藩の儒者で、湯島聖堂の助教をしていた。その次男幡鎌東溟を、佐々木東洋の父佐々木震沢がひきとって、佐々木の養子として育て、自分の娘たけと結婚させた。即ち、佐々木東溟は、佐々木東洋の義弟にあたる。
佐々木東洋は、佐々木東溟の次男隆興を、幼時の人となりを看ぬき、将来を嘱望して、隆興十二歳の時、佐々木政吉の養嗣子として駿河台の邸に迎えた。
栴檀は双葉より香し。駿河台に移ってからの少年佐々木隆興の秀才ぶりは目覚ましかった。神田錦町の錦華小学校へ通学の傍、漢籍を矢村香村、高雲外、塩谷青山に学び、弱冠にして漢学の見識見るべきものがあった。
小学校尋常、高等科の間に、独逸協会普通学部に入学し、外人を家庭教師として、幼にして独逸語の原書をよみ、ペラペラであったという。学術優等、成績抜群であったので、独逸協会から推薦されて、無試験で一高に入学した。
一高入学後も抜群で、漢学の岡田正之、渡楫雄、独逸語の大村仁太郎、山口小太、谷口秀太郎の五教授が推挙して、一学年飛躍して、上級へ転入せしめたという。
それでいて才子肌でもなく、事務家でもなく、好んで交友を作るでもなく、同僚を牛耳るでもなく、慎独勤学、利害得失も眼中にないお坊ちゃまであった。
後年、独逸に留学し、ベルリンの独伊剣道倶楽部で活躍し、ウィーンの国際剣道大会で、各国王侯、王女、貴婦人綺羅星の如く列席する前で、面目をほどこすのである。そして留学中、フェンシングの名選手となったのである。

佐々木隆興の勉学時代
杏雲堂三代目・佐々木隆興は、少年時代から抜群の秀才であったが、その勉学時代は実に恵まれた環境であった。佐々木隆興が、九歳の小学生時代から剣道に熱中していて、十二才頃、杏雲堂創立者の大金持佐々木東洋に、嘱望され、自分の邸に迎えられたのである。
そして、佐々木東洋はまず、隆興少年に剣道を本格的に習わせた。当時千葉周作の門人で、四天王の一人と称された剣道指南・小栗篤三郎という人が、本郷壱岐坂に道場を開いていたので、この人の門人として学校通学の余暇に毎日道場に通わせた。剣道の好きな隆興少年は、十六歳にして目録をとり、大学卒業の頃には免許皆伝を得た。北辰一刀流である。
小学校の時に、剣道の他、前述したように、漢籍経学を、夫々高名な一流の師を選んで勉強させた。特に独逸語は、小学校の時から外国人につかせて習熟せしめた。加えるに、養母の芳子夫人の、温い、賢明な養育にも恵まれた。
才能と環境に恵まれた隆興が、最も恵まれた勉学時代は独逸留学時代である。官費留学とちがって、留学期間、学費、学科、研究題目などに少しも拘束されず、初めから化学とか、病理とか、細菌学とか、何ら制約をうけることなく、独自の識見によって各方面の研究を進めた。
この、各領域にわたり、必要を感じ、有効と認めた学科を、次から次へ自由に研究努力したことが、後年、わが国の医学者中、最初に文化勲章を得ることにつながるのである。
佐々木隆興の独逸留学は、留学期間、経費に制限のない恵まれた環境であったが、当時故国には令夫人と二人の令嬢があり、佐々木杏雲堂後継者という責任があった。
このため責任感から、光陰を惜しみ、文献の読破に、研究の完成にと努力したので睡眠不足となった。遂に持病の不眠症と胃酸欠乏症の再発となって、重態の時期もあった。そしてベルリンに在って数ヵ月間研究を中止し、休養せねばならぬ身となった。
この時、持病を治す手段として、少年時代から鍛えた剣道を思い出した。早速ベルリンの独伊剣道倶楽部に入会した。この倶楽部は権威のある団体で、国際的にも有名なクラブである。
北辰一刀流の剣士・佐々木隆興は、たちまちにしてこのクラブに重きをなすに至った。ウィーンに開催された国際剣道大会には、当時留学中の熊本県人・古賀栄信六段と共に選ばれて、このクラブの選手として出場した。
佐々木隆興は、日本剣道を示すため、東京からわざわざ新しい道具二組をベルリンに取り寄せて、二人で大会道場に臨んだ。この時、欧州各国の王侯、大臣、王女、貴夫人羅星の如く列席する前で会心の試合を演じたのである。
日本剣道の秘術を尽し、両人で竜虎相打つ活劇を演じ、その奮戦力闘、攻防呼号の模範試合が終った時、固唾を呑んで静まり返えった満堂の観客は興奮し、拍手が暫し止まなかったという。今流にいえば、佐々木隆興は日独スポーツ交歓の嚆矢である。
その後、独逸で流行していたイタリア風撃剣といわれた軽サーベルで闘う所謂フェンシングに転んじ、その名戦士となった。日本におけるフエンシソグの嚆矢でもある。
このように、佐々木隆興はスポーツによって体を鍛え、健康が恢復した。また寸暇を惜しむ勉学を続けた。在学中の研究業績「アスパラギンの研究」によって学位が授与せられた。そして明治四十三年四月ベルリンを発ち、雪のシベリアを経て、東へ東ヘと半ケ月かかってウラジオストックに着き、日本海を船で渡って敦賀に着き、陸路東京に到着した。今と違って大変なことである。佐々木一族郎党及び杏雲堂職員一同は、この帰朝を、涙を流して歓喜したという。

京都帝大教授時代
佐々木隆興は、帰朝後、大正二年まで杏雲堂で外来患者を診察しながら、自宅研究所で従来の研究を続けた。
ところが、京都帝大医学部の笠原光興教授が逝去した時、後任として、当時の京大総長荒木寅三郎博士から再三の懇請をうけ、三年という期限をつけて招聘に応じた。時に隆興三十六歳である。
在籍中に、欧州留学中の新研究をもって臨床医学を指導し、京大佐々木内科の名をたかからしめた。特に、血圧を測定することの必要を力説した。今日では血圧測定は健康診断の常識となっているが、この血圧測定を提唱した発頭人は、他ならぬ佐々木隆興である。

佐々木研究所
現在の東京御茶の水杏雲堂病院の裏に、堂々たる佐々木研究所がある。明治二十八年、二代目佐々木杏雲堂病院長・佐々木政吉が、住宅邸内の一隈に煉瓦造二階建の洋館を建築して、研究所としたのにはじまる。
佐々木政吉は、その他に平塚分院を創設し、多忙をきわめたので、研究好きな三代目佐々木隆興が、東大を卒業し、医化学の研究を続ける時に、自分の研究所を活用し、研究所の整備、新設備の拡充を計画し、事実上の佐々木研究所長であった。
しかし、佐々木研究所が、世界の佐々木研究所として、世界的に有名な業績を次々と発表したのは、佐々木隆興が留学から帰ってからである。
特に、内外の学者を驚嘆せしめたものが二つある。その一つは、大正十三年四月に帝国学士院より恩賜賞を受領した「細菌の分解産物の研究及びアミノ酸の合成研究」である。
第二は、やはり帝国学士院より第二回目の恩賜賞を受けた「オルト・アミドアゾトルオールの経口的投与による肝臓癌の実験的研究」である。
この世界的業績は、大正十二年九月一日に起った関東大震災のたまものともいえるものである。大震災によって佐々木研究所は、一夜の中に壊滅した。佐々木研究所で、佐々木隆興らが心血を注いだ厖大なる研究記録は、一朝にして灰爐と化したのである。
普通の人であったら、ここで呆然自失する所である。流石に偉才佐々木隆興はこの時、この災禍をどういう風に福に転じようかと、それのみを思考した。
そして、従来の研究を一大転換させた。即ち、従来の化学的研究から病理学を開拓せんと試みた。それによって、前人未踏の大発見をなしとげたのである。
これよりさき、山極勝三郎教授並に市川厚一博土が、タール塗抹により人工的に皮膚癌の生成に成功して世界の医学界を驚かせた。しかし、そのタール成分中の物質、即ち、化学的に如何なる分子構成をなす物質なるかについては、これを明確に出来なかった。
佐々木隆興の研究は、癌原性化学物質を経口的に内服せしめて、肝臓癌腫を生ずることに成功したのである。従来内臓には化学的物質で癌腫を生ぜしむることは出来なかった。それが内臓に出来た。しかも肝臓癌である。世界中の病理学者を驚歎せしめたのは当然である。そして昭和十五年、佐々木隆興は文化勲章を授受せられた。医学者中に、文化勲章を得た最初の第一人者になったのである。

佐々木研究所長・吉田富三
佐々木研究所からは、世界的に有名な医学者が出た。文化勲章授受者・吉田富三である。吉田富三は福島県出身で、東大医学部卒業後、佐々木研究所に入り、佐々木隆興の指導を得て、その才能を延ばした。佐々木隆興の指導のもとに、徴量のオルト・アミドアゾトルオールを米に混ぜてネズミに与えることによって肝臓癌を発生させた。昭和十一年に佐々木隆興と共に恩賜賞を贈られたのである。
さらに昭和十八年、化学物質を与えたネズミの腹水中に発見した遊離状の癌細胞は、癌研究の貴重な試験材料として世界的に注目され「吉田肉腫」と呼ばれた。これにより、朝日賞、第二回学士院恩賜賞を与えられ、さらに昭和三十四年に、文化勲章を授賞されたのである。
佐々木研究所から、長崎医大教授、東北大医学部教授、東大医学部教授を経て佐々木研究所にもどり、佐々木隆興理事長のもとにその研究所長となった。後、癌研の研究所長となって、惜しくも杏雲堂病院にて、肺癌のため昭和四十七年四月二十七日逝去した。享年七十歳であった。

佐々木隆興のひととなり
杏雲堂三代目・佐々木隆興は、恵まれた才能に、恵まれた環境という、稀にみる幸運児であるが、そのひととなりも世に秀いでていた。佐々木隆興は富貴功名を眼中にせず、他人に強要せらるることなく、自由な立場で研鑽出来る立場に自分を置いた。
常に云ったことは「名を世間に知られたり、又知られんと欲したら、真の研究は出来るものではない。何とすれば、世間に名を知られる時は、或は講演せよとか原稿を書けとか、或は会長になれとか何のかのと云って勉強を妨げ、研究の時間を浪費せしめられる。研究を完遂するには、広く知識を世界に求めねばならぬ。それには、独伊英米などの雑誌、成書を通読する必要がある。そのため世間の俗事にかかわりあってはいられない。自分は出無精とか、交際嫌いと世間でいうが、嫌いではなく、光陰を惜しんで研究をしたいのである」という。
佐々木隆興が癌研(財団法人癌研究所)の所長になったのは、自分で求めたものではなく、長与又郎所長が重態になり、気息奄々という時に隆興の手を執り後任を是非頼むといわれ、その場の状態として応諾の返答をなさざるを得なかったためである。責任感の強い人でもある。
研究所の講堂、図書館を造った時「セメントは講堂にあらず、鉄材は図書館にあらず。人こそ講堂であり、人が図書館である」と演説した有名な台詞が記録に残っている。
昭和十七年一月、宮中新春垣例の「御講書始の御儀」の時、天皇皇后両陛下出席の下に、佐々木隆興が光栄なる進講者に選ばれた。
この日の御儀には高松宮妃殿下、北白川宮殿下の御陪聴あり、松平宮相、木戸内府百武侍従長、蓬沼侍従武官長、橋田文相、山梨学習院長らが陪聴を許された。
佐々木隆興の御進講は二度目であったが、この回は特に好評であった「運動に於ける静の生物的観察と考察」という題であった。
「静なき動は真の動にあらず、乱舞である。動なき静は真の静にあらず、病態であり、枯木死灰である。生物学的事象から観ると明かに、動以静定、静以動定ということが出来る」ことを説いた。まさに儒学のいう「静中有動、動中有静」を解明し、医者にして北辰一刀流の達人佐々木隆興ならではの御進講である。
「医師が病者に安静を命ずるも、唯肢体の安静のみでは意義が少ない。精神の安静をも与えねば完全なる形骸の安静は得られない。昔偉大なる宗教家が往々平凡なる医師に勝る治療の成績を挙げたことが首肯される」と医者のありかたを喝破した。
佐々木隆興は演説はうまいが、好きではなかった。演説の前には一年も前から準備にかかる真面目さがあり、その時間を借しむからであった。佐々木隆興はまた、謡曲を宗家喜多六平太から習い、囲碁は有名な喜多文子について研究し、日本刀と、刀の鐔の蒐集家として知られ、書道と垂釣は一家をなす趣味人であった。

佐々木隆興の終焉
佐々木隆興は、昭和四十一年十月三十一日、八十八歳の米寿で逝去した。喜寿の時、即ち、七十七歳の時にはかくしゃくとして、毎日自転車に乗って散歩した。それほどの元気と筋力があった。
佐々木一族は夫々繁栄し、何の心配もなく、熱海の無住山荘と、平塚の坐忘荘の二つの別荘で老後を満喫した。
「坐忘」とは、顔回のいう「形を離れ、大通に同ず、之を坐忘という」から名づけたもので「無住」というのも大体同意である。坐忘は隆興の雅号で、無住は初代東洋の号である。
佐々木隆興八十八歳の終焉は、好んで起居した坐忘荘で静かに枯葉の落ちるような臨終であった。隆興追憶集である「落葉集」に載った隆興の次女京子(立教大学名誉教授中川重雄夫人)の「最後の会話」から、そのことがうかがわれる。
『「それは父(隆興)が発病する前日のことだった。母の怪我の見舞をかねて私(京子)は平塚(坐忘荘)に行った。父は昼寝のあと、起きる気がしないから、もう少しこのままベッドに居るといい、じっと横向きに臥していた。「京子、わたしは何もいうことはない。もういつ死んでもよい」父が最近よく口にする言葉であるが、何故かその時涙が溢れた。父は蒲団の中から手をさし出した。私は思わず、その手を握りしめた。温い手であった。柔らかい手であった。
「解ったわ」
手を握ったまま、辛うじて頷くだけであった。それが長い生涯の最後の短い会話となったのである』
天寿をまっとうした安らかな終焉であった。

杏雲堂四代目・佐々木洋興
初代東洋の創った杏雲堂と、二代目政吉の創った平塚分院及び佐々木研究所を、三代目隆興が、昭和十四月一月「財団法人佐々木研究所」とした。即ち、二つの病院をその附属病院にした。
佐々木隆興が全体の理事長と研究所長及び杏雲堂病院長、平塚病院長ということになった。正確にいうと財団法人佐々木研究所の初代理事長が杏雲堂三代目、佐々木隆興ということになる。
現在、佐々木隆興の長男・佐々木洋興が二代目佐々木研究所理事長兼研究所長である。佐々木研究所のほうは、前述したように、偉才吉田富三が隆興所長を継いだので、洋興は三代目に当る。
洋興は医者にならず、理学博士になったので、病院は別に院長をもうけた。三代目院長を隆興とかぞえると、
四代目 佐々廉平(杏雲堂出身)
五代目 塩谷卓爾(杏雲堂出身)
六代目 上田英雄(元東大教授)
七代目 五味二郎(前慶大教授)
ということになる。五味二郎は昭和四十九年四月慶大を辞して杏雲堂の院長となった。佐々木家と親戚にあたる医学会の大御所黒川利雄が佐々木研究所の理事に加わった。
理事長佐々木洋興は、東北大卒業の秀才で、理学博士、慶応大学教授を兼ねてかつ財団法人佐々木研究所理事長兼研究所長である。洋興は杏雲堂全盛時代に東京で生れ、祖父佐々木政吉に「目の中に入れても痛くない」ほど可愛いがられて育ち「人を疑うことさえ知らない」お坊ちゃん育ちに成長したので、心豊かに、抱擁力の大きな大人物である。
筆者は洋興理事長と学生時代からの飲み友達であり今でも親しくしていただいているが、私の知る最も信頼の置ける人物の一人である。この信頼がよく杏雲堂という大世帯をかためている所以である。父佐々木隆興が、刀の鐔の蒐集、鑑定で自他共に許した日本の第一人者であったように、その長男洋興も趣味広く、囲碁、ゴルフをよくし、煙草のバイプの研究家として知られている。バイプの研究だけでなく、バイプ造りの名人で、この道の人にはよく知られている。
好漢佐々木洋興のもとに、医学会の名門・杏雲堂が長く栄えることを祈るものである。