樋口一葉と佐々木東洋の関わり

 去る平成16年11月1日に、新5000円札が発行され、その表に樋口一葉が使われたことで、テレビなどに取り上げられ色々と話題になっています。
 当杏雲堂病院も佐々木東洋時代にいささかなりとも関わりがあるのでこの機会にご紹介させていただきます。
 一葉は小説執筆に明け暮れる生活で常に体調はよくなかったようですが(井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」はそれを取り上げた演劇作品です)、本郷菊坂町(現、文京区本郷4丁目)に転居した明治23年、18歳頃から小石川にあった中島歌子の萩の舎で歌の勉強を始めました。
 一方佐々木東洋は明治14年に杏雲堂医院を神田区西紅梅町(杏雲堂病院の現在地神田駿河台)に開設しており、師匠の歌子が何らかの病気で通院していたので、一葉がその薬を取りに来ることもありました。その折りに、一葉が肩こりを佐々木東洋に診察して貰ったと思われる記事が、妹の邦子により残されています(婦女新聞、明治41年11月)。
「姉は十六歳頃安藤坂(小石川)の中島先生(歌子女史)のお宅に居ります時分から肩に凝固がございましたので、其の頃中島様は佐々木東洋様にお掛りになって居らっしゃる處から、おついでに見てお貰ひ申しますと、佐々木様は『これは若し外へ発するとよろしいが、内へ入ると生命に拘はることになるかも知れない』と申されましたが、然し其後は時々肩が凝つて来ることが御座いました位で別に大した事がありませんでしたが、明治廿九年の春になりますと肩の凝固が何時の間にか背部の方へ行ってしまひましたのです。お医者様は『熱が出なければよいが』と云ふ事でしたが、その七月頃から屡々発熱しますので、夏の暑いのに発泡をしたりして熱を除ったり致しました。発熱する時には床に就いて居りましても、性質が好きなものですから、気分の好い時には宅へお出での方々にお講義をして随分根を疲らす事もございました。」
 残念ながら佐々木東洋の予期したように一葉の病状は悪い方向へ向かいました。明治29年の夏には神田小川町にあった山龍堂病院で樫村清憲院長の診察を受け肺結核と分かりましたが病勢はすすむばかりでした。「たけくらべ」を激賞した森鴎外の紹介で著名な青山胤通東京帝国大学教授が往診したこともありますが、手当の甲斐無くついに一葉は本郷丸山福山町(現、文京区西片1丁目)の家でその年の11月23日、24歳7ヶ月で亡くなりました。その時に立ち会い死亡診断書を書いたのが、小石川に開業していた三浦省軒医師でした。上記の回想文の中で、お医者様というのはこの三浦省軒だとされています。このように本郷界隈に住んだ一葉の病いにまつわる挿話が神田界隈に数々残っています。

参考書;杏雲堂病院百年史、佐々木研究所編、1983年
立川昭二、病いの人間史 明治・大正・昭和、新潮社、1989年