杏雲堂病院創立記念日について
黒川雄二
 
 杏雲堂病院の前身である杏雲堂醫院の開設の年は、これまで「杏雲堂病院百年史」などに記載のあるように、明治14年(1881)とされてきたが、その開院日がいつであるかはこれまで長い間不明であった。そこでこれまでにも杏雲堂病院の歴史的なことや蔵書に関して色々とお世話を頂いていた酒井シヅ先生(順天堂大学医史学研究室客員教授)を平成17年10月にお訪ねして開院日探索方法についてご相談した。その結果、その当時の新聞や役所への届出文書を調べれば手がかりがあるかも知れないとのご示唆を頂き、早速図書館や公文書館などで調べたが情報は得られなかった。その後は探す当てもなくいたところ、昨年7月のある日夕刻、酒井先生から「ついに分かりましたよ」との弾んだお声のお電話に続き、その基となった文献がファックスで送られてきた。お話しによれば、偶々脚気に関して調べ物をされていて、山下政三著「明治期における脚気の歴史」(1988年、東京大学出版会)を見たところ、杏雲堂醫院開院日が記載されているのを発見されたとのことであった。

早速、上記の著書から該当部分(第3章、第7節、佐々木東洋)を以下に示すと、
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新聞広告を出したという文面は次のごとくである。
「佐々木氏の脚気病院 其広告左の如し 脚気は本邦の地方病と称すへき者にして我政府至仁の典 曩(さき)に明治十一年を以て脚気病院を設けられ 委員を置き 五年を期して本病の原因治法等を検究せしめらる 東洋も亦治療委員の命を奉し 爾来孜々(しし)今日に及へり 然るに今般該病院を廃せられたり 因てここに一病院を私設し 今後三年を期し 汎く本病者を治療し以て孜々の素志を達せんと欲す 乃ち余が治療を受けんと欲する諸君は本院に就き規則を一覧して入院あれ
六月一日開院
駿河台西紅楳(ママ、梅が正しい)梅町三番地
佐々木東洋」
(醫事新聞;57号、18頁、明治15年5月20日号)
と、(明治十五年)六月一日開院と明記して広告している。

また別誌には
「脚気病院ハ六月限廃止せられ 該病審査事務ハ東京大学醫学部に属せられたるにより 七月一日より同部に脚気病室を設け入院外来施療共取扱ハるゝ由なり 又脚気病院治療委員たりし佐々木東洋君ハ私立脚気病院を開かれたり」(中外醫事新報、55号、20-21頁、明治15年、1882、6月10日)
と記され、やはり明治十五年六月の開院であることが示されている。
そもそも脚気病院の閉鎖が明治十五年六月であることからも、十三年説、十四年説が成り立たないことは言うまでもない。

明治二十年の医学情報誌によると
「杏雲堂醫院 同醫院ハ明治十五年六月佐々木東洋君の創立に係り 本年五月新に病室を増築し 院内に医局、試験室、耻室、浴室、事務室及看病人室、賄室等を設け 院長ハ佐々木東洋君、醫員ハ別課卒業生四人にして薬局ハ同君の舊邸に在りて薬局生七人を置く 又た外来診察及往診ハ別に同邸に醫員ありて各々分擔す 入院患者ハ殊に肺癆多く常に十中の七八を占む 其他又た呼吸器に關するもの多く 爾餘は心臓病、脊髄病等なり 今病室の概況を記さんに前后二棟の歐風二階造にして前棟を二十三后棟を二十八の病室に区畫し各室三、六平方迷(八畳敷)あり 中にベットを設け傍に疊を敷きたるあり平牀を備へたるあり 是れ患者従来の常習に注意したるものゝ如し 同院の地味ハ最も高燥清潔なる駿河臺上にして屋上の眺望臺に上れハ府下三分の二以上を瞰視すへく 殊に病室には比較的多數の窻牅(そうよう、窓)を設け専ら換氣法に注意せり (中略) 又た同院の患者は慢性の者多きが故に従て来訪人も多く 以て室内の緩裕(かんよう、余裕がある状態)を謀り一室一人を容るゝこととし 現今五十一室とも患者満員せり」
  其他又た注意の至れるハ便所にて硝子張の樋に依て石造の貯便所に排射し樋及尿器ハ手を洗ふたる水にて自然洗浄するの装置にして尚ほ三四日目にハ之を掃除せしむと云ふ 又た貯糞所には大なる圓筒を装置し臭気を屋上に導き他へ瀰散(びさん、散じること)せさらしむ 其他病室入口の戸の如きも開閉に響を發して危篤患者に障害なからしめんが為め開き戸を用ひすして引き戸に為したる等 君か多年の試験より出たる注意なれハ其結搆(  )一として到らさるなし 爾后病室を築かんとするもの宜しく此等の病室に基き 猶将来益々本邦人に適合すへき樣改良あらんと予輩の希望に堪へさる所なり
(中外醫事新報、176号、41頁、明治20年、1887、7月25日)
で、明治十五年六月に創立、二十年五月に新しく前後二棟の病室を増築したと記されている。当時の医学情報誌の記録であることから、内容にまちがいはないものと思われる。(中略)

すなわち、杏雲堂病院の前身である佐々木東洋の私立脚気病院杏雲堂醫院は、明治十五年六月一日、駿河台西紅梅町三番地に創立された。患者増加のため、明治二十年五月、洋風二階建二棟の病室が増築され、以後、繁栄、増築を重ねて、今日の堂々たる杏雲堂病院になったというのが正しいのである。(以下略)
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以上が、山下先生の著書からの引用であるが、ここで簡単に明治期の脚気について触れてみたい。今では脚気患者は極めて稀で病名でさえ知らない人の多くなった病気であるが、明治時代までは国民病とされていたほどであった(酒井シヅ著;病が語る日本史。2002年 講談社)。明治天皇のご意志もあり時の政府は、漢方医学と西洋医学の両面から原因及び治療法を検討することを考え、明治11年から15年までという5年間の期限付きで脚気病院を設立することを決めた。最初の脚気病院委員には、漢方医学から遠田澄庵、今村了庵、西洋医学から池田謙斎、石黒忠悳、小林恒そして当時、陸軍一等軍醫正を辞任したばかりの佐々木東洋が任命された。脚気病院は最初仮病院として表神保町にあったが、明治12年4月、正式に本郷区向ヶ丘弥生町(現文京区本郷)に設置され開院し予定通り明治15年6月に閉院、その後は東京大学醫学部脚気教室として再出発した。この間、脚気の原因は不明のまま、対症療法が漢洋両医学の面から詳細に検討され、俗に脚気相撲と呼ばれたが、決定的な治療方針は確立されず、明治43年(1910)の鈴木梅太郎によるビタミンB1の発見に至るわけである。
一方、佐々木東洋は5年間のみの脚気病院での診療に満足できず、自ら脚気病院を作る決心をし、自宅の向かい側に土地を求めて病室を作り脚気患者を治療するという広告を出した。これを杏雲堂醫院と命名し、この度その開院日が明治15年(1882)6月1日であることが明らかになったわけである。杏雲堂醫院は後に一般内科患者も治療することになり、増築して杏雲堂病院へと発展した。従って、本年平成19年(2007)には、創立125年を迎えることになり、これを記念して講演会を創立記念日に当たる6月1日に開催することとした(詳細は後日お知らせします)。なお、御茶の水界隈の病院としては、創立168年の順天堂医院、創立126年の井上眼科に次ぐ古い歴史を持つようである。
付記;開院広告記事は、同時に「東京日日新聞 明治15年5月20日号」にも掲載されている。
東京府統計書の病院調査にも、「杏雲堂醫院 明治15年6月1日設立」とあり、患者統計が下記のように記載されている(杏雲堂醫院患者統計表)。全病室面積は127坪、明治20年までは入院治療のみ、明治21年からは外来診療も開始したことがわかる貴重な資料である。杏雲堂の由来に関しては、本ホームページのトップページ(杏花をクリック)に紹介がある。
                               
(平成19年4月)